1997年10月上旬。クギサキくん36歳と10ヶ月。
もう、青年とは呼べないクギサキくんは、「登龍門」の運営責任者として足か
け3年を過ごしていました。
「登龍門」もスタート時は、赤字まみれの事業だったのが、なんとか3年目に
して利益を生めるところまで漕ぎ着けていたし、それ以上に知名度がグングン
上昇していた頃でした。
インターネットもようやく市民権を得、ネット社会突入前夜といった雰囲気の
頃でもあり、
「ネット社会における就職情報会社は、これからどうあるべきか?」
なんてことを結構まじめに考え始めていました。
同時に、「登龍門」によって、就職情報事業者の仲間入りをした自分なのです
が、何となく不完全燃焼な状態の自分にも気づき始めていました。
自分の力不足のためでもあるのですが、自分としては不本意なことであっても、
オーナーの意向には従わざるを得ない、我慢しなければならないことが、
「登龍門」が有名になればなるほど、利益をあげそうになればなるほど、顕著
になってきていたのです。
そんなことは、サラリーマンであれば当然のことで、その調整をいかにうまく
行うかが、組織人としての腕の見せどころだ!ということも、一方では思って
いました。
が、やっぱり、
「くそー、オレの会社だったらなー…。
こんなくだらないこと(詳細自主カット)で我慢しなくてもいいのに…」
なんてことをウジウジと夜な夜な行きつけの焼鳥屋で愚痴っている、典型的な
オヤジサラリーマンでありました。
そんな折、青春時代まっただ中の22歳の頃、リクルート社で一緒に営業マン
として苦楽を共にしていたムライ氏と再会したのです。
(ムライ氏詳細は、バックナンバー13号、14号を参照ください)
きっかけは、Jobwebが出版していた本に、ムライ氏がリクルート社の人
事担当者としてコメントを寄せていたのを、ボクが書店の立ち読みで見かけた
ことでした。
「あ、れー!?ムライさん、リクルートで人事やってんの?似合わねー…」
と思いつつ次の日には、リクルートに電話していました。
「あのー、おたくの人事に、ムライミツルっていう人います?」
まことに怪しげな電話をかけてしまったのですが、次の瞬間に出てきたのは、
当時の売れない営業マンの頃そのままの、天衣無縫なムライさんの声。
「おー、クギサキー、ひっさしぶりだねー。よっしゃ飲みに行こうぜー!」
こうして、パフ創業への扉が、本人も気づかぬまま静かに開かれるのでした。
(うーん。…つづく)
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