釘さんの100の出会い プロフィール
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  <第103話> 「三つの社名のお付き合い。東芝テックのHさん(前編)」   2006/12/11  
 
僕が30歳になったばかりの頃。僕は、企業人事に適性検査を提案する仕事をし ていた。適性検査といえば、採用時に使用するものや、昇進昇格、配置のとき に使用するのが一般的なのだが、当時僕がいた会社で新たに開発した適性検査 には、社員研修の場面で活用できるものがあった。

この適性検査を売り出して間もなく、すぐに導入してくれた会社があった。確 か第一号ユーザーだったと思う。

その会社の名前は「東京電気株式会社」。知る人ぞ知るPOSレジのナンバー ワン企業だ。

この適性検査の導入が決まったとき、ちょうど教育・研修の担当となった人事 マンがいた。僕と同世代の若手の担当者だった。お名前をHさんという。Hさ んとは、僕が会社を辞める(すなわちパフを作る)までの7年間、ずっとお付 き合いをさせてもらった。

研修で適性検査を使うのは、1年のうち2回か3回程度。その瞬間だけの取引 なので、「深いお付き合い」というほどでもなく、さりとて「疎遠」というわ けでもなく、ほどよい距離感のお付き合いだった。

お付き合いを始めて4年目のとき、社名変更が行われた。東京電気株式会社か ら「株式会社テック」という名前になった。

同社のPOSレジは、もともと「TEC」のブランドで浸透していたので、違 和感はまったくなかった。

・・・・・

僕がパフをつくり、いよいよ本格的に営業活動を始めた1998年の春。会社設立 のご挨拶を大義名分に、Hさんのところに何か売れるものはないかと、出かけ て行った。

「クギサキさんのところは、ホームページの制作なんかはできるの?」

Hさんは、僕に質問してきた。

お金がなく、どんな仕事でも欲しかった僕にとって、「できる?」という質問 に対する答え方は決まっていた。

「もちろんですとも!」

自身たっぷりに答えた記憶がある。

しかし、僕自身にはホームページ制作の経験やスキルなどなかった。このコラ ムにも以前登場した、制作デザイン会社グレートロークの福田さんにお願いし て、企画・提案書を作ってもらうことにした。

この提案がHさんの心にヒットした(のだと思う)。ほどなく発注が決まった。

『テックタウン』という仮想の街に、コンビニや資料館やタイムマシンなどが 登場し、楽しみながら会社のことや製品のことを理解することができる。 コンビニに設置されたポスレジが実際に動作するところなどは(当時のWeb技術 としては)圧巻の内容だった。

かなりの大掛かりなホームページで、金額もある程度大きくなった。いまだか ら言えることだが、初年度の売上の1割を占めるほどの大きさだった。

しかし、ホームページの制作というのは、パフのコアのサービスではない。僕 としては、ぜひともテックに「協賛企業」になってほしかった。こちらのほう がパフの利益率も高い。当時、協賛企業になるためには80万円のお金が必要だ った。なぜか今よりも高い値付けだった。

制作の打ち合わせが終わったあと、Hさんに打診した。

「Hさん、協賛企業としての契約も、ぜひお願いしたいんですが……」

「え、いくら?」

「はちじゅうまん」

「いやー、厳しいなあ。ごめんなさいね」

ホームページで大きな金額をもらっていたので、僕も強くは迫れなかった。し かし、営業活動がうまくいってなかった時期でもあり、かなり落胆したことを 覚えている。

会社に戻りパソコンを立ち上げると一通のメールが届いていた。Hさんからだ った。

「やっぱり協賛企業に申し込みます。気が変わらないうちにメールします」

これだけの、実にあっさりしたメールだった。

パフのコンセプトを気に入ってくださったのだろうか。それとも、僕のあまり に落胆した姿を気の毒に思ってくださったのだろうか。

どちらでも構わなかった。とにかく飛び上がるように嬉しかった。

・・・・・

株式会社テックは翌年、「東芝テック株式会社」という社名に改まった。僕が お付き合いをはじめてから、これで三つめの名前だった。

ホームページの『テックタウン』も、『東芝テックタウン』と改称し、ますま す充実した街に進化していった。

そして、お付き合いがはじまって三年目。ミレニアム、2000年のことだ。いま のパフを支えるある大事な商品が、この『東芝テックタウン』をきっかけとし て生み出されることになった。

(後編に続く)
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