釘さんの100の出会い プロフィール
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  <第107話> 「大日本インキの人事マンたち(その2)」   2007/01/15  
 
鶴田さんが東京本社の人事部に異動になったのは1997年の秋。ちょうど僕が独 立を決心し、パフ設立の準備を始めたばかりのタイミングだった。

「実は僕、独立することにしたんです」

鶴田さんが本社勤務になってすぐ昼飯を一緒に食べに行ったのだが、このとき 僕は独立のことを鶴田さんに打ち明けた。

鶴田さんは、僕が立ち上げる予定の会社がリクルーティングの会社だと聞いて、 「じゃあ、本社の採用担当者を紹介しますよ」と、すぐに面談の場をセッティ ングしてくれた。

数日後、日本橋にある大日本インキの本社ビルを訪れた。

鶴田さんと一緒に出てきたのは、鶴田さんと同年代(30代前半)の若手人事マ ンだった。

「はじめまして。採用と教育を担当している、嵯峨(さが)と申します」

嵯峨さんは、口数こそ少ないものの、そのぶん人の話を真剣に聞いてくださ る人だった。

このときも、僕の話にじっくりと耳を傾けてくださったのだが、すぐに仕事 を出していただけるかどうかは読めなかった。

・・・・・

僕がパフを設立し、本格的に仕事を開始した1998年3月。あらためて嵯峨さん のところにお邪魔し、パフとしての営業活動を行った。

びっくりしたのだが、このとき嵯峨さんは、すでにパフに仕事を出そうとして くださっていた。採用ホームページなど制作物を中心に、具体的な話が展開 されていったのだ。

「やった、パフとしての初仕事だ!」と喜んだのもつかの間だった。それから 数日後、嵯峨さんから申し訳なさそうな声で連絡が入った。

「実は来年の新卒者採用を見合わせることになってしまったんです……」

当時は、不況のどん底にあった時代(山一證券、三洋証券、拓銀などの潰れな いと思っていた大手企業が相次ぎ倒産し始めたころ)で、新卒者採用を中止す るところが続出していたのだ。

ただ、嵯峨さんは設立したばかりのパフに同情してくださったのか、わずかで はあるが、ホームページの改訂の仕事を発注してくださった。当初期待してい たほどのボリウムではなかったものの、少しでも仕事が欲しかった僕にとって は、とてもありがたかった。

それから半年ほど過ぎたころだった。嵯峨さんから突然の電話があった。

「実は若干名だけ、来春の新卒者を採用することになったんです。いまさらな んですが、パフでなんとかなりませんか?」

すでに就職活動のシーズンを過ぎていたし、パフには当時わずかな会員しかい なかったので、たぶん何の効果もでないだろうと思っていたが、それでも何も しないよりはマシだと思い、メルマガで告知することにした。

すると、どうしたことだろう。何人かの応募者が現れ、結局、そのうち1名が 採用されることになった。パフのサイトもまんざら捨てたものではないものだ と、妙に自信を深めたものだった。

嵯峨さんからもとても感謝された。いったんは中止となった新卒採用だったた め予算はほとんどなかったはずなのに、十分な費用も出していただいた。

後で聞いて分かったことだが、嵯峨さんが感謝してくださったのは、パフの効 果に対しての感謝ではなく、自分が困っているときに即座に対応したパフの姿 勢への感謝だったという。これを聞いたとき、とても嬉しかったことを覚えて いる。

こういったこともあり、大日本インキは翌年から正式に、パフの協賛企業とし ての契約を結ぶことになった。

そして、嵯峨さんのほかに鶴田さんが自分自身の担当業務(海外人事)と兼務 で、新卒採用にも携わることになった。鶴田さんとは何年ぶりかで一緒に仕事 をすることになったわけだ。

(前年は採用中止で流れてしまった)採用ホームページの企画を再度練り直し ながら、嵯峨さんと鶴田さんと僕の3名は、次年度の採用戦略を考えることに なった。

パフが設立されて1年半が経過した1999年の夏のことだった。ここからが大日 本インキとパフとの、本格的な取引の始まりだった。

(その3に続く)
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