釘さんの100の出会い プロフィール
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  <第106話> 「大日本インキの人事マンたち(その1)」   2007/01/09  
 
創業の頃からの協賛企業に、大日本インキ化学工業株式会社(大日本インキ) という会社がある。学生には馴染みが薄いかもしれないが、世界的な化学メー カーで、特に印刷インキの最大手企業として産業界では極めて有名な会社だ。

僕が大日本インキと初めて取引を始めるようになったのは、いまから15年ほど 前。1992年の春のころだった。

前回のコラムで登場したグレープストーンもそうだったが、大日本インキも、 僕が当時手がけていた『人事情報システム』の導入企業だった。

導入してくれたのは、千葉県佐倉市にある同社の総合研究所。当時、総合研究 所で人事を担当していた若き人事マンが、今回の登場人物だ。

名前を鶴田(つるた)さんという。鶴田さんは、新卒で大手証券会社に入社し ており、大日本インキは2つめの会社。僕と出会ったのは、大日本インキに転 職して間もないころだった。証券会社にいた頃は、バリバリの営業マンだった という。

当時僕は、1ヶ月に一度の頻度で、佐倉にある総合研究所まで通っていた。東 京から佐倉まで行くだけでもかなりの時間がかかるのだが、佐倉から総合研究 所までも相当な時間がかかる。公共の交通機関がなく、会社が運行している送 迎バスでしか行くことができない。曲がりくねった道をバスで30分ほど揺られ て、やっと辿り着くことができるのだ。

こう書くと、とても辺鄙なところにある建物のように聞こえるが、さにあらず。 広大な敷地には四季折々の花が咲き乱れ、古代ヨーロッパの王城を連想させる ような美術館(川村記念美術館という日本有数の美術館)も併設されている。 まるで別世界に降り立ったような錯覚に陥る。

ここに来ると、都会の喧騒をしばし忘れることができ、とてもゆったりとした 気持になれるので、僕は好んで(いろいろと理由をつけて)訪問するようにし ていた。

取引を開始して数ヶ月経ったころ、鶴田さんから「帰りに一杯やりましょう」 とのお誘いを受けた。取引が始まってから分かったことだが、実は鶴田さんは 僕と同じ大学の出身で、お互い、普通のお客さんと業者という関係以上に親し みを感じていたのだ。

佐倉の小さな居酒屋で、鶴田さんとふたりでお酒を酌み交わしながら、互いの 人生観や仕事観などを語り合った。このときから、僕は鶴田さんのことがとて も好きになった(変な意味じゃなくて、笑)。

それから1年ほど経ったころ、鶴田さんは関連会社であるゴルフ場に出向する ことになった。オープンする前のゴルフ場で、立ち上げ準備全般の役目を担う ことになったのだ。

出向の内示が出されたとき、鶴田さんとキャリアビジョンというものについて 語り合っていたことをよく覚えている。おそらく鶴田さんのキャリアにとって、 大きな転機となる出向だったのだろうと思う。

・・・

その後、鶴田さんとはしばらく会えなくなった。「鶴田さん、元気でやってる かなあ……」と思っていたある日、鶴田さんから一本の電話が入った。

「お久しぶりです!実はこのゴルフ場でもクギサキさんのところのシステムや サービスを使おうと思っているんですが、いちど相談させてくれませんか?」

僕は喜び勇んで、「じゃ、すぐにそちらに伺います!」と返事をした。

実はこのゴルフ場、千葉県内にあったのだが、佐倉の総合研究所以上に不便な ところだった。最寄の駅は、周りに店ひとつない無人駅で、駅を包み込むよう に薄(すすき)が茫々と生えている。まるで、ドラマ「北の国から」の第一回 放送で、純や蛍が五郎に手を引かれて降り立ったような駅だった。

鶴田さんはこの無人駅までマイカーで迎えに来てくれた。車で20分ほどでゴル フ場には着いたのだが、(僕はゴルフをやらないので他所とは比較はできない のだが)見事なコースや施設を備えたゴルフ場で、ビックリした。

しかし慣れないゴルフ場の立ち上げや運営という仕事。かなりのご苦労をされ たのではないかと思っていたが、鶴田さんは思いのほか元気で、新しくオープ ンしたばかりのゴルフ場の運営で張り切っていた。

結局、このゴルフ場でも、僕(が勤めていた以前の会社)が提供するシステム や適性検査のサービスを使っていただけることになった。

そしてそれから2年ほど経ったある日。鶴田さんから嬉しい電話をもらった。

「クギサキさん、実は僕、今度は本社勤務になったんです。ど田舎から都心に 出て行くことになって、ちょっとドキドキしています(笑)」

時は1997年の秋。ちょうど僕が独立を決心し、パフ設立の準備を始めたばかり のタイミングだった。

(その2に続く)
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