釘さんの100の出会い プロフィール
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  <第72話> 「求人サイト『登龍門』で出会った人々(その2)」   2006/05/01  
 
1995年夏。『登龍門』の仕様作りが始まっていた。

僕は画面構成や機能を、ひたすらまとめていた。インターネットのシステムだということを意識しすぎると訳がわからなくなってしまうので、とりあえずは、新しい就職情報誌を創刊するという感覚で作り始めた。

雑誌とちがう点は、ページがパソコンの画面で展開されるということ。それから読者が任意の条件で検索できるということ。そして、随時、自分の意見や感想を書き込んだり、資料請求をオンラインで行えるということだった。

特に『登龍門』では検索機能に力を入れた。『こだわり検索』というメニューを作って、何十個もの条件を組み合わせて企業を検索する機能を作ったりした。

しかし、僕はこのときすでに、コンピュータのプログラミングの仕事からは足を洗っていた。したがって、僕がいくら仕様を作っても、この仕様を実現させるためのプログラムを作る人間が必要だった。

インターネットのプログラムを作ることのできる人材など、この時代にはまだまだ少数派だったのだが、関連会社のR社に、運良く経験者が中途入社してくれた。名前をO君という。

O君は当時26歳(だったと思う)。数年間、大手メーカーで制御系のソフトウェアの開発に従事していた。ネットのプログラミングは、趣味で取り組んでいた。

このO君が、登龍門の専属開発担当となり、以来、僕と二人三脚で開発を進めていった。

開発半ばの10月上旬。某テレビ局から、取材の依頼があった。インターネットの特集番組で、登龍門のことを取り上げたいという。

まだ世の中に出ていなかったはずの登龍門が、なぜテレビ局の取材を受けるのか??

実は9月下旬に、新聞社にニュースリリースを流し、それが大きく紙面に取り上げられていた。テレビ局のディレクターはこの記事に目をとめ、取材申込みをしてきたという訳だ。当時日本には、ネットの就職情報サイトというのが、ほとんどなかったため、かなり注目されていたのだった。

テレビで紹介してもらえるとは、願ってもないチャンス。僕らは二つ返事で取材をOKした。

が、ここからが大騒ぎ。テレビに映るということは、ちゃんと動くものが出来ていなければ話しにならない。しかし、まだまだ開発は道半ば。まともに見せられる画面など、何一つなかった。

僕とO君は、それから取材日まで、連日残業や徹夜の毎日。どうにかこうにか、間に合わせることができた。

取材日は11月上旬で、放映日は12月1日だった。奇しくも、このテレビの放映日が、登龍門のカットオーバーと同じ日。考えてみれば、このテレビの取材があったからこそ、必死になって開発を急いだようなものだ。もし、取材がこのタイミングでなかったとしたならば、登龍門のカットオーバーはもっと遅れていたかもしれない。

1995年12月1日。何はともあれ、めでたく『登龍門』の運営が開始された。ついでながら、僕がテレビデビューを飾った日でもあり、35歳と1日めの日でもあった。

それにしても『登龍門』が無事リリースされたのは、O君が昼夜問わず必死に開発作業を進めてくれたからである。「あぁじゃない」、「こうじゃない」と何度となく仕様変更を繰り返す僕に嫌な顔ひとつせず、コツコツとシステムを作り上げてくれたO君の技術屋魂に敬服する。

O君は、後にパフの立ち上げに際しても、技術面で大きな力となってくれた重要人物の一人だ。

『登龍門』を通じた出会いの二人目(通算45番目の出会い)は、システムの開発を全面的に担ってくれたO君でした。
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