釘さんの100の出会い プロフィール
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  <第58話> 「【新年特別編】素晴らしき出会いとの再会 (その3) 」   2006/01/23  
 
1月2日午後4時過ぎ。僕は同窓会の会場であるホテル『山水館』に向かった。

この山水館というホテルは、僕と深いつながりがある。僕が小学生の頃、親父 が板前(いまで言うなら料理長)として働いていたホテルだ(ホテルというよ り「大きな旅館」という感じだけど)。

当時の山水館には大きな岩風呂と温泉プールがあった。小学生の頃の僕は、毎 週土曜日、学校の授業が終わると親父の仕事場(厨房)に行き、昼ご飯を食べ させてもらっていた。その後、食後の腹ごなしに岩風呂や温泉プールで遊ばせ てもらったり卓球をやらせてもらったり……。そんな思い出たっぷりの山水館 が同窓会の会場というのも、感慨深いものがある。

山水館に着いた。入り口では、3人の女性が受付をやっていた。

「えっと3年1組のクギサキですが……」

「あー、パンダやん!! 久しぶり、懐かしいなぁ。私、わかる?」

「え、だ、誰やったっけ?」

「サチコやん、パンダんとこの近所に住んじょったやん」

「あー、近藤サッチャンかぁ、あんまりベッピンさんになってるもんじゃけん、 分からんかったよ、ははは」

こんな会話が、受付から宴会場の部屋に行くまでの10メートルくらいの間に、 たくさん繰り返された。

宴会場では、すでに多くの同窓生たちが着席していた。ひと目でわかる奴もい れば、あんなのいたっけ?という奴もいる。全部で50人以上が集まっていた。

当時の学年は5クラス。180人弱の生徒数だったので、3人にひとりくらい が集まっていることになる。30年の歳月が流れているというのに、この出席 率はたいしたものだ。

午後5時ちょうど。幹事を務めているカンテン(本名は寛典〔ひろのり〕なん だけど皆から音読みで呼ばれていた)が開会の挨拶を行った。カンテンは、僕 が所属していた柔道部の主将で、県大会でも常に上位に入賞していたやつ。弱 かった僕が柔道を3年間続け、最後に黒帯をもらえたのは、カンテンのおかげ だ。

目を会場の奥のほうにやると、そこには当時の先生方が3名座っていた。ひと りは学年主任を務めていたチヨキチさんだ。もうひとりは、国語が専門の女性 教師だったゴトウ先生。このゴトウ先生が、僕のパンダというあだ名を全校に 浸透させた人だった。そしてもうひとり。あんな先生いたっけ?という人がい る。隣に座っていた級友に、「おい、あの先生誰だっけ?」と聞いた。「あり ゃカラキだよ。鞭を振り回していた鬼のカラキだよ」。アタマはツルツルで髪 の毛は一本も残っていないが、まさに鬼のカラキ。当時の英語の先生だった。

ゴトウ先生以外は、皆70代。そりゃアタマもツルツルになるはずだ。皆さん 現役を引退されて、悠悠自適な生活を過ごしてらっしゃるという。僕の担任の ナカジマ先生は残念ながら欠席だったが、チヨキチ先生の話によると、車椅子 の生活になってはいるものの、元気に過ごしておられるらしい。今度の帰郷の 際には、ぜひとも先生のご自宅に顔を出したいと思った。

乾杯が終わるや否や、僕は席を立ち、グラスを片手に方々のテーブルに出張し た。

地元の九州からだけではなく、山陰、四国、関西、中部、関東など、様々なと ころから駆けつけていた。役場に勤めている奴。自衛官になってる奴。教師に なってる奴。都会でサラリーマンやってる奴。旅館の主人になってる奴。主婦 業に専念している奴……。当然だが、皆いろんな立場になっていた。30年前 の今ごろは、学校に続く大分川の土手道を、全員が白い息を吐きながら歩いて 通っていた15歳の少年・少女だったのに。

45歳のオトナに対して言うのは失礼かもしれないが、皆、立派で逞しい社会 人になっていた。皆、家に帰ると、強くて優しい父親や母親なのだろう(もう 孫がいるという奴がいたのにはビックリしたが)。

夜7時半。あっという間の同窓会は幕を閉じた。

まだまだ全然話し足りない。出席者の半分の人間とも話せていない。当然のご とく、ほとんどの参加者は、二次会の会場に向かって歩き始めた。

(長いですが、まだ次回に続きます)
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