釘さんの100の出会い プロフィール
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  <第19話> 「品川の大衆割烹「江戸一」   2005/03/28  
 
大学入学後、「人形劇団ZOO」というサークルに入部はしたものの、僕は、

ほとんど活動に顔を出すことはなかった。

サボっていたわけではない。活動に興味がなかったわけでもない。僕は入学式
の翌日から、毎晩アルバイトに出かけていたのだ。そうしなければ、貧乏な家
庭に生まれた僕が、東京で生活するなどとてもできなかったのだ。

場所は、品川駅の港南口。いまでこそ「品川インターシティ」など、近代的な
建物がたくさん並んでいるところだが、当時はいくつかの会社がポツポツとあ
るくらいで、どちらかというと静かで寂しい街だった。

そこにあった大衆割烹の店が「江戸一」というところ。僕がアルバイトをして
いた店だ。

僕が生まれて初めて、仕事らしい仕事をしたのが、この「江戸一」という場所
だった。

勤務時間は、夕方の6時から閉店時間の夜11時まで。お客さんの残り具合に
よっては、12時くらいまで勤務することもあった。

僕はこの仕事を通じて、大事なことをたくさん学んだ。

そのなかでもいちばんは、「あいさつをする」ということの大切さだった。

「いらっしゃいませ!」「ありがとうございました!」「かしこまりました!」

なんてことのない言葉かもしれない。でも、この言葉が、なかなか出てこない。

言おうとしても、言葉にならない。お客さんが目の前に来ても、つい口篭って
しまい、ハッキリと言うことが出来ない。

僕は決して引っ込み思案なほうではなかった。でも、いざお客さんを目の前に
すると、声がでなかったのだ。

これは自分でも意外だった。また、とても情けなかった。

なぜ、あいさつできないんだろう……。まじめに考えてみた。真剣に自分の気
持ちと向き合ってみた。すると、なんとなく分かってきた。

要するに僕は、その店の従業員になっていなかったのだ。お客様を迎える立場
になっていなかったのだ。お客様に感謝をする気持ちになっていなかったのだ。

3日目からだったと思う。僕の中で何かが変わった。腹の底から大きな声で、
「へい、いらっしゃいませ!!」と言えるようになったのだ。

自分という存在が、そのお店と一体なのだと思えたとき、あいさつが、とても
自然に元気に明るく行えた。

それからというもの、お客様との会話も弾んだ。お客さんっていいな、挨拶っ
ていいな、働くって面白いな、と思った。

結局、人形劇団の活動との兼ね合いもあり、このバイトはそれから半年で辞め
ることになるのだが、僕にとってこの半年間の経験はかけがえのないものだった。

・・・・・

先日仕事で品川に行ったとき、「江戸一」を探してみた。「江戸一」が入って
いたビルは今もあった。しかし、そこには「江戸一」はもうなく、コンビニの
ローソンが賑わっていた。とても寂しかった。

18番目の素晴らしき出会い。僕に「あいさつ」が大切だということを教えて
くれた大衆割烹「江戸一」のお話でした。

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