創業物語 プロフィール
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  第09話    「花の都東京へ…涙の貧乏浪人時代の始まり」 2000/09/24  
1978年秋。
文化祭も終わり、周囲は皆、大学受験追い込みモードに突入していました。

僕もやっとこの頃からなんとなく「東京の大学に入りたいなー…」と思うようになっていましたが…。何のことはない。「神田川の生活を、東京で送ってみたい」という思いと、「東京に行けば、大物になれるチャンスがあるかもしれん!」という実にいい加減な動機だったのですが…。

そして1979年春。
3年間の放蕩生活がたたり志望の大学にはオール不合格。

でも「東京で暮らしたい!」という思いは捨てがたく、親に、東京で浪人生活をさせて欲しい!と頼み込んだのでした。
我が家はとても貧乏であったにもかかわらず、高校の3年間を下宿住まいさせてもらっていました。

またこの上に、東京でひとり暮らしで親に経済的負担をかけるのも嫌でしたので、親には「アルバイトで生活費は稼ぐので、予備校だけなんとか行かせて」と懇願し、やっと東京行きを認めてもらったのです。

4畳半一間、日当たりなし、風呂なし、トイレ共同、家賃1万3000円。
千代田線の根津駅から西日暮里方面に10分ほど歩いたところの木造アパート「恵荘」(めぐみそう)が、僕の東京生活のスタート地点でした。

予備校は高田馬場の「早稲田ゼミナール」。
アルバイト先は、駅弁製造の「日本食堂」。
考えてみれば、引っ越しの段取りから予備校入学の段取りから、アルバイト先の決定まで、すべて独りでこなしており、随分と自立した18歳だったと我ながら感心します。

予備校に入学して、4月~6月にかけては、一生のうちでおそらく一番勉強した時だと思います。
(科目数の多い国立大学は捨てて、私立一本で挑戦することに決めていました)

そして、夏休み前に行われた全国公開模試。
結果は、なんと全国4位!

これは、本当ににまぐれも大まぐれだったのですが、自惚れの強かった僕は、
「なーんだ、こんなもんかい。ちょろいねぇ。」
「早稲田も慶應もこれで、合格確率80%以上か、楽勝だね。」
みたいな勘違いに陥ってしまったのです。

あとは、大学受験料(私立は高い!)やら入学金やら授業料やらを少しでも稼がねば!とアルバイトに生活の主軸を移していってしまったのです。

日本食堂での泊まり込みの弁当作り、仕事は辛いのですが、休みの日や空き時間にバイト仲間と遊ぶのが楽しくて、相当にのめり込みましたね。

生まれて初めて、ストリップなるものを見に行ったのもこの頃です。

当時、京浜東北線の西川口駅の側に、「モーニングサービス付きストリップ」というのがありまして、朝9時までに行けば、なんと牛乳とアンパンが支給され、しかも学割で千円ぽっきり。パンを左手に牛乳を右手に、観音見学。

こんなことにハマリながら浪人生の夏は過ぎていき、いよいよ秋の公開模試のシーズンがやってきました。

バイトや遊びをやりながらも、そこそこ勉強もしてきた僕は、まだ自信を持っていたのですが、試験後の結果を見て真っ青!

「合格確率50%以下!」

やっばーい!まさか2年連続浪人するわけにも行かず、それ以降はバイトからも足を洗い、受験勉強に舞い戻ったのでした。

しかし、バイトをしないと生活費がない…。

入学金に充当しようと思って貯めていたバイト代も、生活費として徐々に減っていき、それでも大学受験料分だけは残しておこうと、ホントに爪に灯をともすような生活を送っていました。

受験前の秋~冬にかけては、、パンの耳や即席ラーメンだけで過ごしたこともあり、僕が一生で一番やせていた頃だったと思います。
(今のぜい肉を当時の僕に分けてあげたいくらいです!)

そして、いよいよ、1980年2月。

2度目の大学受験シーズンが、やってきたのです。

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