釘さんの100の出会い プロフィール
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  <第113話> 「講談社の大平さんと村上さん(その3)」   2007/02/26  
 
講談社の大平さんと村上さんに初めて会ったその日の夜。当時、パフの役員を 務めてもらっていた寺さん(第88話~90話に登場)に、興奮して報告したこと を覚えている。

「いやー寺さん。きょうはね、とてもいい出会いがあったんですよ」

「ほう、どんな出会い?」

「講談社の採用責任者なんですけどね。“太平洋”に、ひとつ点が足らないん ですわ、それが。はっはっは!」

「???」

「いや、“大平洋”さんっていうんですけどね。ま、まあ、それはいいんです が、これはきっとパフにとってかけがえのない出会いになると思いますよ」


1999年3月2日。この日の出会いと僕の『予感』は、その後、講談社の正式な 「パフの職サークル協賛企業への参画」という形で現実のものとなった。

この年の秋から、講談社とパフとの二人三脚での採用の仕組み作りが始まった。 講談社はそれまで、採用活動においてインターネットを利用したことがなかっ た。もちろん採用専用のホームページもなかった。

僕は、講談社採用ホームページを制作するところから着手した。コンセプトは、 まさに『顔』。「講談社の“顔”“貌”“かお”」と題して、講談社の現場で 働く人々の様々なカオをホームページで紹介していった。

また、学生からとかく遠い存在に思われがちの人事採用担当者の皆さんのカオ も、できる限り身近に感じてもらえるよう、たくさん露出させるようにした。

同時に、講談社の熱い採用姿勢を前面に押し出すべく『講談社採用宣言』とい うページを、採用ホームページが正式に立ち上がる前段階から掲載されるよう にした。そこには、大平さんと村上さんの顔を大きく映し出し、熱いメッセー ジを載せることにした。

さらに学生からの質問をホームページから受付け、その質問への回答も、この ホームページ上に載せるようにした。大平さんと村上さんは、一人ひとりの質 問に丹念に答えてくれた。「そこまで丁寧に答えなくても……」と僕が思うほ どに、本当に丁寧すぎるくらいの対応だった。

「超就職氷河期」と呼ばれていたこのころ、多くの企業は新卒採用に消極的で、 お金も時間も人も、なかなか割くことをしなかったのだが、講談社のこの姿勢 は、学生に大きな共感を生んでいった。

パフが主催する(当時はとても珍しかった)『就職応援イベント』にも、大平 さんと村上さんは必ず参加してくださり、パネルディスカッションや就職相談 員や模擬面接官などを積極的に引き受けてくださった。

こうして大平さんと村上さんと一緒に取り組んだ新しい講談社の採用。パフに 与えた影響も当然大きかった。特にマスコミや出版を志望する学生のあいだで は、パフの認知がいっきに広まっていった。

大平さんはある意味“硬骨漢”。言い換えると“へそまがり”だった。さもな ければ、当時何の実績も知名度もなかった(しかも、僕ひとりしかいなかった) パフに、大切な採用の仕事をすべて任せるなどということを考えるはずがない。 おそらく多くの反対を押し切って、パフとの一蓮托生を決めてくださったのだ ろう。

村上さんは、大平さんが人材開発部を離れた後、後任の人材開発部長として、 講談社のさらに新しい採用を作り上げていった。うけない“オヤジギャグ”が 大好きで、とてもお茶目な性格なのだが、一方で、厳しさと優しさをもち、常 に周囲への気遣いを忘れない方だ。パフがとんでもない失敗をしでかした時に も、スタッフに表面では厳しく叱咤しつつも、陰では暖かく、我慢強く、最後 まで我々を見守ってくださった。

大平さんは人材開発部の後、広報室を経て、現在は財団法人野間教育研究所の 所長(常務理事)を務めておられる。村上さんは昨年、人材開発部を離れ、現 在は社長室次長を務めておられる。

大平さんと村上さん。パフの創業2年目の出会いから丸8年。僕も含めて皆ず いぶん年を食ってしまったが、いつまでも変わらない『同志』だと僕は思って いる。最近はお会いする機会が少なくなってしまったが、お互いがヨボヨボの 爺さんになったとしても、きっと何らかの付き合いが続いていることだろう。

ということで、73番目の出会い=大平さん。74番目の出会い=村上さん。ふた りの講談社人材開発部長のお話しでした。
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